今見たいものって・・・・


こんばんは


今日は予定が狂ってしまった(´Д`;)



いきなり一日暇になってしまったので本当に久しぶりにジョギングしながら時々立ち止まって近所の桜を見ていました。


でもちらっと見る程度でなんだか気持ちが入らない



多分今自分が見たいものは別な所にあるんでしょうね・・・・・・





なによりも綺麗に整った街に活気があふれ人々の笑顔に子供たちが列をなして登下校する姿!港には色鮮やかな旗を掲げた漁船が魚を降ろし魚市場では声を張り上げ魚を競り落とす人達。


六月頃だったかな?故郷に隣接する漁港では朝同じ時間にウニ漁の船団が一斉に港を出ていく様が見られました。


我先にと勇ましい姿!


かっこよかったんだよな〜。


自分の故郷は元に戻るよね?



またあの景色が見れるようになるよね?

あの祭りもあの行事も!




人々の笑顔や街の活気が自分にとっての今は桜です。







  

3・11忘れないうちに残しておきます。



この記事は東日本大震災!自分が体験した震災当日の状況を忘れないうちに細かく記録したいと思いここに書き残す事にしました。


地震当日を思い出してしまうという方は読まないようお願いします。


あと長いです。




東日本大震災の二日前(3月9日)に割と大きめな地震がありました。 父や姉家族がいる宮城県石巻市は津波の危険があると認識していたので早速父に電話し、話しをした。震度5程度の揺れにもかかわらず父はあの程度ならなんともないよと言っていました。

しかし回りのすすめで念のため高台に上ったとのことでした。


その二日後。 私は普通に職場で仕事を。

もうすぐ3時の休憩だ!なんて思っている所にガタガタガタッと揺れ始めました。
(3月11日午後2時46分)


職場の建物は鉄骨の柱に鉄筋の張りがクロスしその交差した部分がぶつかるので小さい地震でも大袈裟な音がします。


しかし今回は最初から普通?の地震じゃないととっさに分かりました。


とにかく今にも倒れそうなパソコンを押さえると揺れはいっそう激しさを増して来ました。倒れそうな棚を背中で押さえ込んで後は必死に揺れに耐えるだけでした。 地震は例えるならアイドリングだったエンジンを一気にアクセルを踏み込んだ?かのように強い揺れへと変化していきました。


壁やガラスやありとあらゆる物がぶつかり合い バサバサバサッという音は今でも耳にこびりついて離れません。


長い揺れの中間辺りで私の左側にある窓が勢いよく割れ、足元にガラスが飛び散りました。


目の前では作業に使うボール盤等の機械が次々に倒れていきます。棚からは物が落ち床に置いてあるものでさえも転がる。


ずいぶんと長かった揺れがおさまり辺りを見ると社内は騒然とし

床にはガラスの破片と瓦が散乱してました。 どうやら隣りの家の屋根瓦が落ちて職場のガラスを突き破ったようです。

長い揺れがおさまり外へ出て見ました。

既に通りには人がたくさん出ていて悲鳴をあげながら泣き叫ぶ女性や道路にまで飛び散った瓦を避けながら走る車などそこには非日常の光景が広がっていました。

揺れがおさまった直後に雷と吹雪があったのを覚えてます。あの地震は天にも影響を及ぼしたのでしょうか?



とりあえずまわりに怪我人がいない事を確認すると職場の被害状況を簡易的に調べブレーカーとガスを止めて社長と私を含む従業員は自宅へ戻ろうと。


社長の車のボンネットには大きな瓦礫が被さり二人掛かりで撤去しました。


私の車は無事ですが、散乱する塀の残骸で車を駐車場から出せなく仕方なく自走で自宅まで帰りました。 途中に見た光景は私のこれまでの人生では初めて見る惨状でした。



自宅へ着くとカミさんは外へ非難し、近所の一人暮らしのお婆ちゃんと一緒にいました。


雪も降っていたのでとりあえずカミさんの車に二人を乗せて自分は家の被害状況を確認。幸い物はぐちゃぐちゃだったがガラスや壁には損傷が無く一安心。ちなみに借家ですがf^_^;



電気ガスはストップし水道は濁った水がチョロチョロ出るくらい、ミュウは電気の消えたこたつの中にいました。


帰宅途中で災害時には非難所になる行政の施設を見ました。職員さんが座布団等を運んでいたのでカミさん達をそこへ向かわせ自分はまた会社へ戻りました。


割れた窓をビニールシートなどで覆い応急処置をし戸締まりをしてまた自宅へ。

ミュウに餌と水を与えて自分はまだ明るいうちに近所の家の倒れた塀の片付けをしました。

とりあえず車が走れる程度に皆で大きな自然石の塀を端っこへ寄せました。


夕方くらいになると私が使う道路はだいたい車が走れる程度になり自分も職場から車を持ってきました。


夜には自分も非難所へ行きましたが体育館や室内は余震で天井が落下する可能性があるとの指摘で広いロビーで雑魚寝状態 石油ストーブは一つだけしかなく凄く寒かったです。

自宅にいるより非難所の方が具合悪いと!その日のうちに自宅へ戻りました。 そしてまたその日のうちに電気が復旧しやっと情報が入り始めます。

それまでは人づてに情報を聞いてたので詳しい状況は知りませんでした。


自分がいる地域が1番被害が大きいと思っていたのに震源地はなんと父や姉家族がいる宮城県だったとは。


後に少しづつ入ってくる悲惨な状況!


繰り返し放送される津波の映像!


原発の水素爆発の映像はまるで映画のワンシーンを見てるみたいに実感が無かったり。


その後は宮城の父や姉家族の安否確認に没頭し、様々な方々の協力を経て無事を確認しました。縁あって一人のボランティアの方とは今も連絡が来ます。

こういった方々には本当に頭があがらないですね。


おかげさまで父は住まいを確保できましたがライフライン復旧がまだなので非難所生活とのこと。
ライフラインの復旧と共に新居へ移るとのこと。


姉家族は自宅二階部分は津波の被害が少なく親戚も含め自宅での生活。


姉は自ら被災者でありながら職業柄(看護師)赤十字病院で勤務しています。




とにかく普通の日常に戻りつつある気はしますがまだまだ復旧してない被災地があります。


誰か偉い人が 『時間は掛かるかも知れないがみんなで力をあわせ・・・・』とか言っていましたが


時間が掛かるとか言われるとがっかりします





一刻も早く早急な復興を。