うちのばがねご



こんばんにゃ〜



かなりショッキングな画像ですが大丈夫っすか?


ミュウはちゃんと元気ですよー



なんかミュウ的に最近ハマってるらしいです


これ、車にひかれちゃったごっこだそうで


変な遊びを覚えたもんで下手に外へ出せなくなりました(´Д`;)



ペットをお飼いの方はご注意ください。






  

チャリ通きっつぃ。

(画像は今食べたいものランキング3位のマンゴープリンです。ちなみに1位はひみつ〜)





こんばんは


今日も雨ですねぃ


こんな日はチャリ通の私はホントきっついっす(-。-;)



自宅までの約1300メートル!(笑)



雨に出来るだけ濡れないように本気でペダルをもんでうちへ帰りました



結果は〜


もちろん びちょびちょ



てか、なぜか背中がすんごい事に(´Д`;)多分タイヤだな





あ、ペダルを『こぐ』
じゃなくて 『もむ』 って言いませんか?



言いますよね?










  

11日って日の意味深さ。



こんばんは



しとしとぴっちゃんしとぴっちゃんしとぴっちゃん


悲しく冷たい雨すだれ


幼い心を凍てつかせ

帰らぬちゃんをまっている・・・・




そんな歌のフレーズがやたら身に染む雨降りの今日はあれからちょうど2ヶ月なんですね



そういえばニューヨークの世界貿易センタービルとペンタゴンのテロ事件も11日(9・11)


そして東日本大震災も11日(3・11)


そしてなんの偶然か!


うちの息子の誕生日も11日(5・11)





一応言うよ



誕生日 おめでとう。





天皇皇后両陛下様が被災地を訪問していました。


優しい表情で避難所生活の人達を労っています。



そして荒れ果てた地へ祈りを奉る両陛下様も


本当は声を出して泣きたいんだと思いました。



それが叶わぬから



かわりに空が泣いてるのかも。








  

客観視?

(画像は本文と無関係)



こんばんは



例えば〜


○○してる人を見ながら○○する自分がいます。


ってな感じの文をたまに見かけませんか?


この『○○する自分がいます』


ってのが気になります。


自分もよく使いますが、あたかも何かしてる自分って人間を第三者目線で見ているという奇妙な様子ですよね?


自分もblogをやるまではまるで意識してませんでしたがそこのところちょっと意識してみました(^^ゞ


この書き方は例え私が反社会的?な立場をとったとしても客観視する事で気分的に責任を逃れられてます。


で、責任を感じないから文章が楽に書けるんですよね。


でもですよ!何かのセミナーに参加したりしたときってわりとよくこの『客観視する事が成功の秘訣!』なんて言葉を耳にします。


なんですか?これは何かの呪文?


ってくらい聞きましたf^_^;



それを信じればあながち客観視する事はマイナスな事じゃないのだとは思いますし文章中にうまく取り入れればそれはそれで読みやすくも出来るかも


あ、なんだかこの辺!うまく表現出来ない(´Д`;)



このお決まりのフレーズの使い方は割とあちこちでよく見かけます。
個性って面から見ればやはりつまらない文章になるのでしょうか?


客観的な要素を文章の中で反映させたいけど無責任な記事になるのはなんだか嫌だ(´Д`;)


う〜ん言いたい事がうまくまとまらない(笑)


今日気になって言いたかった事はそれだけf^_^;




でもね




その他に文章や日常の会話の中でもよくつかわれる書き方言い方で〜


『逆に・・・』


とか


『○○と思うのは私だけでしょうか?』

って、あるでしょ?


裏を返せばひじょうに表現力に乏しくてまるで一部の女子高生が何か見る度全て『カワイイ〜』で統一してしまうくらい書く側にとっては楽です。


読む側からすると一つの文章の中に頻繁に出現したらイラッとくるでしょうが、その表現力の乏しい文章に想像力を掻き立てられるかも!


実はなんでこんな事を記事にしたかと言いますと、ここ数日書いていた記事の『石巻市へ帰省』


油断していると上記のキーワードを頻繁に使ってしまうのです。


私はあの震災の状況を誰かに伝えようとか本当はおこがましいと思ってました。


書く以上は出来る限り自分の言葉で綴りたいとも思っていましたが私が見た震災の現状か?そのストレスか?

重圧を感じていつの間にか楽に書くことを選択している気がします。


震災の現状を書く場合、一旦フィルターを通す事によってその楽さ加減がまったく違います。



でもこの震災の記事を記録として残したいと少しでも思った時に『楽』に逃げてしまったら被害者に対して申し訳ないですよね?


だから最初から文章は全修正してかたい感じの記事となりました。


多分読まれた方は言う程ちゃんと書けてないじゃん


と突っ込みたくなるかも知れないし、読んでいても疲れるだけだと思います。


しかしあれが私の文章レベル


音楽もそうですが人が聞きたくなる!読みたくなる!


そういう伝え方が出来る人!


羨ましく感じました。


客観視することも、『逆に〜』って使い回しも今まで淘汰されていないのは見事市民権を得られた形だからでしょうか?

blogを書く以上は不特定多数の方に問題なく読んで頂ける?

そんな文章が書きたいですね(^^ゞ



つくづく自分が書いたレベルの低い文章を見て〜


逆に呆れてる自分がいます。



〜( ̄▽ ̄;)さっそくかーぃ





※ すみません支離滅裂な文章になってます



  

始まり。石巻市へ帰省〜その9




私が石巻市へ行ったのは震災から50日も過ぎた頃でした。


津波の直撃を受けた場所では朝の炊き出しに人が群がり、そこから車で10分も走ればショッピングモールでお洒落した人達が普通にお買い物をしています。




家族や住居や仕事を失った人がテレビのインタビューで言っていました。



あれ以来時間が止まっているって。


それは確かです。




あの地震はこの壁掛け時計を止めました!



地震が時計を止めたなら


今度は人の力が!時間を進めるんだと思いました。






以上を持ちまして


『石巻市へ帰省』


を終了いたします。



被災地の方々が今日にでも!明日にでも早く普通の生活に戻れる事を望みます。




  

余談。石巻市へ帰省〜その8



被災地へ行く!


そういう気持ちはもちろんありました。

しかし自分もある意味被災者(被害者)意識を引っ提げての石巻入り。


でも自分が被災者である自覚?は地震後電気ガス水道が使えた事で数日で払拭。


そして実際の仙台、石巻の現状を見るとその思いが恥ずかしい程だということも分かりました。


でも見えないものの恐怖といえば被害者である事は現在も否めないですよね?



久しぶりに会った姉にはこの現状を聞いてもらいたいと思っていました。


ひとしきり姉の苦労話しを聞いた後でタイミングを見計らい自分も原発問題を話しました。


するとそんな話しはまるで興味が無いかの如くまた上からいくらでも被せてくる津波の恐怖とその後の地獄絵図。


目に見えて人や家が流されたこの町では郡山辺りの放射線レベルがどうのこうのなんて話しは二の次三の次で?


姉も旦那さんも『それが〜?』


って感じです。




最近自宅近くの小学校の校庭も使用不可になりました。



郡山はいつの間にか街を歩いてるのは大人だけ?って思う時も。



確かにこれは異常な事態です。


心配し過ぎるのか?

それとも心配するべきか?



主を失ったおもちゃと


子供たちの姿が消えた校庭が


何かを訴えているけど


重なっては見えますが。


何を訴えているのか?


私にはよく聞こえません。






  

姉家族へ会いに。石巻市へ帰省〜その7




門脇町を離れ、同市開北に住む姉家族の元へ向かいました。

途中親父と同じ集落の人が居る避難所へ立ち寄り今後の話しなど。



親父が話しをしてる間に各国から来たボランティア達と若干の交流?を。


多分ニュージーランドとかそっち系の方々と、それと台湾?から来た方々といったところでしょうか?


皆さん真剣な面持ちでゴミを拾っていました。



ここまで来る間に犠牲者に捧げた花をたくさん見る。


私はかなり精神的には麻痺してしまっています。


がれきの山同様に捧げられた花もやはり町の景色の一部となり、そこが現実なのか非現実なのか?



その光景を前にしても親父と談笑出来てしまいます。




開北の姉はこの日は非番!高校の教師をする旦那さんもちょうど自宅に居ました。


地震後十日間も連絡が取れずGoogleの上空写真では家も確認出来ず(これは後に私の見間違えと判明)

本当に最悪を覚悟しました。


しかし水に浸かった自宅は既に綺麗に片付けられており、姉と避難所暮らしの親父の今後を相談。


雑談を交えながら久しぶりの再会を果たした。





姉と雑談をするなかで感じた事が一つあります!




次回の『石巻市へ帰省』ではその余談を少し。









  

ブライスちゃん。




こんばんは


まず、私のblogからこの『ブライス』というキーワードが出るっつーのがあやしいですが


いやいやッ!違うんです


とりあえず聞いて下さい


先日『キクチ食堂四月』で同じブースになったケイティさんが非売品として展示していたのがこの画像のブライスちゃん!


正直、ヒゲ面男子の私が興味を持つ訳がありませんが〜



興味もっちゃいました〜f^_^;



いやいやッだから誤解しないでくださいね( ̄▽ ̄;)


あのッそのッブライスちゃんを抱っこしてどーちゃらこーちゃらっつーんじゃ、ありませんからしかし


多分このブライスちゃんはそういった使い方はしませんねf^_^;



私が興味を持った部分はカスタムです

熱く語るケイティさんの話しにいつの間に引き込まれていました。


まだ勉強不足なので分からないですがなにやら洋服もハンドメイドでブーツもハンドメイド!実はちゃんと下着も着けててそれもハンドメイドすげッ


それだけじゃないのです。

元々の顔のメイクを落として自分なりのメイク(塗装?)をします。まつげも一本一本書いているとか!
髪も様々なパターンがあるし


そして唇も微妙に削って特徴的に仕上げたりとかなり上級者レベルなカスタムが成されているのが『聞けば』分かります。


瞳にもホログラムシート?等を貼付けてカスタムしてます。

頭の後ろにある紐を引くとラチェット式で回転する瞳が数段回で変化し表情ががらりと変わるんでしょうね?


ブライスのカスタムはこの365でお馴染みの美部家のみきるさんもやってますよね


とにかくすばらしいです


このカスタムのレベルが非常に高等であること!


しかもそれが女子の手によるもので。




また一つ、知らない世界の扉を開けてしまったような(^^ゞ



一つ一つの作業はとても緻密で私も刺激になりました。



ブライスについてはネット検索すると生い立ちから今の人気ぶりがそちらで熱く語られてますので興味がある方はどうぞ





  

日和山の石段を下りて。石巻市へ帰省〜その6

(この記事は5月1日の話しです)




日和山(日和公園)の海側の石段を下りて行くと上から見ていた瓦礫の街へ真っ直ぐたどり着きます。


親父の友人宅があった門脇町も見渡す限りの瓦礫の原。


数メートルの高さに積み上げられた瓦礫はもはや見慣れた光景。


墓石が薙ぎ倒された墓地でお墓を捜す家族とも出会いました。


あの重い墓石がまるで別な場所へ運ばれてます。


親父の友人宅は門脇小学校の向かい辺りでしたがやはり場所が特定出来ない。


それにしても目印としてやってきた門脇小学校が見るも無惨に津波とその後の火災でやられてしまっています。
ここへは先日『ゆず』のお二人も訪れてますね。


幸いここでは誰も犠牲者は出ていないようです。


はじめはすごく胸騒ぎがしましたがそう聞いたので少し安心しました。


同市の大川小学校での多くの犠牲は本当に痛ましい事で、綴る言葉が見当たりません。


地震の後に警戒に当たっていた石巻市消防の車も無惨に瓦礫の一部となっていました。



ここでもただ途方に暮れるばかりの私たち。


結局何も進展はありませんでした。親父の友人とその家族は現在も行方が分かりません。



次に私たちは親父が住んでた集落の知り合い?がいる避難所を回りながらこの日は休みだという姉貴の元へ向かいました。



〜つづく。




  

工房 英二さんの作品。



こんばんは


今夜も石巻のお話しはお休みします。


連続で書いていると精神的にきついです




ということで、今日ご紹介しますのは先日のイベント!『キクチ食堂四月』でご一緒しました〜



工房 英二さん



革製品や各種アクセサリーなど本当に手間をかけた作品を作ります。


いつのまにかファンになってしまった私は常に身につけてたりしますが


とくに私の革製のウオレットチェーン?があるんですが


作者本人に『いい色になったなー』と褒められて有頂天(´Д`;)



しかも画像を見てください!


イベントが終わる頃になんと英二さんに直接に黄色のストラップをもらっちゃいました



もちろん早速携帯に付けましたよ



工房 英二さんの作品がめさ気になる人は〜


シトロンさんかめえぷるさんのお店へ行ってみてちょんまげ〜(*^▽^*)/


  

GW!ラストは釣りッ。



こんばんは


またまた石巻のお話しはお休みします。


ゴールデンウイーク最終日の今日はいつもの相方さんとその友人夫婦達との渓流釣りを楽しんで来ました



なにげに今年初めての釣りになりますがね



んで、震災以降何となく心から晴々とした気分になれず、それに伴い釣りをする気分ではなかったですから




午前中は良かった天気も午後からは若干曇りがちな空模様でしたが各自ぼちぼちな釣果で山歩きも含めて良い一日になりましたよ。



長かった連休も終わって明日からまた仕事!


つっても金曜日だから一日行ったらまた休みだf^_^;






では、また






  

日和公園。石巻市へ帰省〜その5

(前々記事のタイトル〜その4でした




女川を後にした私たちは石巻へ戻りました。


急な坂を車で上り着いた先は石巻を一望出来る日和公園です。


旧北上川の河口から上流数キロくらい先まで見渡せる展望を誇る山です。


旧北上川の中州にある楕円の特徴的な建物は『石ノ森萬画館』です。


今ボランティアさんが懸命に復旧作業をしてるところかな?。


目線を海側へ移すと姉の勤務先である市立病院があります。

建物自体は大丈夫そうですが後に姉より聞いた話しでは微妙に傾いているため場所を変えて建て替えるとか?




そして病院を取り囲むように広がる瓦礫の原がやはり甚大な被害を思わずにはいられません。


この場所にもまだ見つからない父親の友人が居たそうです。

その友人とは地震の一日前に会ったばかりで、ちょうどその更に前(3月9日)に起こった地震の影響で話題は津波だったそうです。


『ここは津波が来ても家の裏が日和山だから大丈夫だな』



と、話していたそうです。






桜が散りはじめていた。


ぐずっていた空も雲の合間からやっと陽が射し絶好のハイキング日和!


なんとこの公園にこの日は演歌歌手の八代亜紀さんが来ていました。



まるで観音様の様な表情で求められた握手をしてました。



親父にも握手してもらったら?と促すと


『こんなボサボサな頭で失礼だ』





・・・・なんだかまたいろいろ考えちゃいました。


八代亜紀さんを横目に私たちは徒歩で日和山を下り街があった場所へ向かいました。





〜つづく。






  

バーベキュー(^∀^)ノ



こんばんは


ちょっと石巻の話しはお休みしまして(^^ゞ


今日は久しぶりにフルメンバーが集まっての友人宅でバーベキューでした



風は若干強かったですが日焼けする程日差しが強かったです。


たくさん話しもしたし、サッカーもしたし、キャッチボールもしたし・・・・




で、あたまいたーい(´Д`;)



だけど楽しかったなぁ〜



またよろしくお願いいたします(*^▽^*)/





  

女川漁港へ。石巻市へ帰省〜その2



女川漁港近くにも父親の友人が居ました。


ここでも友人宅の場所すら分からないままただ呆然とするしかありません。


漁港の鉄筋コンクリートで造られた施設が基礎ごと倒されてたり、消防の施設が破壊されてたりと形があるだけマシな気もしてくるほどの状態。


画像3は船用の燃料として設置してあった重油のタンクでした。


巨大なタンクが全部で6〜8個ありましたが全て流されました。タンクの一つは向こう側に微かに見えますが後は見当たらないのでおそらくは海に沈んでいるんでしょう。


強固な波止場や防波堤まで破壊された岸壁はまるで生命感を感じません。


普通なら磯蟹やフナムシがたくさんいますが動くものは何も確認出来ませんでした。

あれほどの重油や油が流出したはずの海ですがそれが嘘の様に水はきれいでそこに生き物がいないのがまた不思議でした。


あの津波は大量の流出油を洗い流したのと同時に沿岸の生き物まで流しさった?




ここで活動していた自衛隊と警察官が慌ただしく動きはじめました。


素早くビニールシートで覆い隠し手慣れた感じで作業をしています。


身元が分かり身内の元へ帰られることを祈ります。



この後私たちは滅入る気分を変えるために石巻を一望できる高台の日和公園に向かいました。



〜つづく。








  

父の友人!痕跡を探して。石巻市へ帰省〜その3




津波の恐ろしさ!


女川の中心?を通る石巻線かな?


線路上を電車と車が入れ代わってます。

そして画像3は高台に電車が打ち上げられています。


このくらいの高台なら普通に逃げた人が避難する高さだと思うけどそんなところまで津波は来たんですね。


この時余震があったらしくあちこちから津波?を警戒するサイレンが鳴り響きました。


今自分たちがいる場所は50日前は津波が襲った場所!


そう思うと言いようの無い恐怖感が込み上げて来ました。



しかし私と父親はそのまま女川の漁港まで下りてみました。



〜つづく。





  

父の友人!痕跡を探して。石巻市へ帰省〜その2



渡波(わたのは)地区の集落で写真一枚見つけられなかった私達は早々に諦め次は女川へ向かう。


女川は父親の友人が居た場所でまだ見つかっていません。


多くの犠牲者とまだまだ行方不明者がいる場所で自衛隊が今も捜索を行っていました。


まるで違う土地?と思うほど、そして呆気なくあの街並みが消えたこの女川!


目標物を失った町では父親も友人宅がどの場所か判断がつかずただ途方にくれる。


もはや捜すと言っても何も手を出せない状態で漂う腐敗臭がひょっとしたら?と思わせる事くらいです。


(画像2)しかし高く積み上がった瓦礫は人の手ではどうする事も出来ませんでした。


瓦礫だらけの現場はとにかく臭います。

水産加工場から流出したと思われる魚の腐敗臭やオイル類の臭いは判断がつきます。


動物の類いは独特でそれも分かります。

臭いで判断出来る部分もありそうですが、何やら災害救助犬?とかは使えないらしいです。臭いがキツすぎる様で。


着ている服やマスクに臭いが染み付きます。


自然と空気の良い場所を探して移動してる私たちでした。


父親の友人を探しに現地に行った私たちはその行為がまるでおこがましい?行為であることを直ぐに悟りました。


友人宅はおろか、痕跡すら確認出来ない状態。


途中見つけたもの。

(画像1)は海から約1000メートル離れた位置まで運ばれた中型?漁船。ここはほとんど山の上みたいな所です。



(画像3)はのり面の上に建ってる家が津波被害にあってる場所!

海からの距離が約600メートルで水面からの高さは約40〜50メートルくらい?

津波はたやすくここまで来てのり面を駆け上がった様です。


これ以外にもこの地区には津波の恐ろしい記憶がまだ遺されていました。



〜つづく。





  

親不孝者。石巻市へ帰省〜その1



この連休にやっと被災した父親の元へ帰省する事が出来ました。


震災後50日を過ぎてやっとの事でした。

詳しい情報が無いまま?或は情報の収集があまく状況がつかめないままの出発に。


たくさんの方々の後方支援?を受けて勇気百倍!!


本当に嬉しかったです。


ありがとうございましたm(_ _)m



実は今回の帰省は、はじめからblogに綴りたいと思ってました。


しかし現地の惨状を目の当たりにするにつれそれはいかなるものか?と葛藤することにもなります。


ですが父親も姉も現地で知り合った数人の被災者の方々の気持ちはこの悲劇をたくさんの人に知ってもらいたいと思っている事と、後世に伝えたい気持ちがある事。


その役目として私のblogなどまったく役不足ですが自分なりの記録として今回体験し、見聞きしたことを残す決断をしました。


1000年?に一度と言われる未曾有の大震災!その一つの記録としては意味があるのかと。





出発は予想される渋滞を避けるため、深夜の12時でした。

そのため道中は全く渋滞もなくスムーズに走れ。当初心配していたガソリンも普通に24時間営業のスタンドで販売。


先ず仙台港に着くと道路の歪みや陥没、ひび割れが気になり。気をつけないと事故に繋がります。


そのうち見えてきたのは積み重なったナンバーが付いたままの自動車の山!路上は片付いてますが横は瓦礫が散乱する状態。

R45を走っているとテレビでよく目にする船が道路上に点在する光景。


道脇の植え込みが塩害で枯れていたり、家やショッピングセンターが津波によって破壊されてる光景も広がる。



ほぼ半壊した家の二階からは小さな行灯が見えるのでそんな中でも既に人が生活しているようでした。


この状況だけでもまるで信じがたく、戦場を知らないのに戦場の表現を当て嵌めてしまう。いやッ!多分それ以上です。

自分はただ唸るしかありませんでした。

石巻に入る頃にはだいぶ辺りは明るくなり、すると遠くまで見渡せるようになりました。


でも本当ならそこは遠くまで見渡せちゃいけない所なんです。 住宅街だった場所ですから。


瓦礫に埋もれた石巻市内を走り若干迷いながらも父親のいる避難所へ到着。


そこで少し仮眠を取り、後ほど父親と震災後はじめての再会を果たす。



父親はまくし立てる様に今回の体験を話してくれました。


その言葉の節々には私に対する当て付けの感情も入り乱れていました。


確かに!来ようと思えばどんな手段でも来れました。やれガソリンが無い!とか危ない!とか理由をつけてたのは事実です。



父親は津波が背後から迫るなか車で脱出したこと。


仲間がまだ3人上がらないこと。


ばらばらに避難した同じ集落の人達のこと。


たくさんの思い出の記録を失ったこと。

いくら話しても話し足りない様でした。


私たちは先ず父親の住んでた集落へ行き一枚でも写真が無いか探しに行きました。


何度か父親は一人で探しに来てたとは言ってましたが所有する本を数冊見つけただけ。


父親の家は無惨に土台からむしり取られ屋根は山側約100メートルくらいの方へありました。その場所はその集落の津波最大到達位置で、水面からの高さは20〜30メートルはあると思います。


船や漁具の浮きやブイ等が集落まで散乱し、画像2は東北に居るの?って思うような大きなウミガメの死骸も。


瓦礫を見つめながら涙する父親の後ろ姿は本当に小さく見えました。


同じくここに住んでいたおばあさんが捜し物をしてました。

話しかけるとやはり津波の生々しい体験談を。


そしてびっくりしたのは私に写真は撮ったのか?と聞いて来ました。


私は何枚か撮りましたが!と答えるとそのおばあさんは自分の家も撮っておくれと私に懇願してきました。アングルまで指定してきます。


自宅の最後の記録を残したかったのだと思いました。




瓦礫の山は途方もなく、情けない事にうちの思い出の写真は一枚も出てきませんでした。


普通は有っても見ませんが無いと思うと無性に見たくなりました。




〜つづく。