親不孝者。石巻市へ帰省〜その1
この連休にやっと被災した父親の元へ帰省する事が出来ました。
震災後50日を過ぎてやっとの事でした。
詳しい情報が無いまま?或は情報の収集があまく状況がつかめないままの出発に。
たくさんの方々の後方支援?を受けて勇気百倍!!
本当に嬉しかったです。
ありがとうございましたm(_ _)m
実は今回の帰省は、はじめからblogに綴りたいと思ってました。
しかし現地の惨状を目の当たりにするにつれそれはいかなるものか?と葛藤することにもなります。
ですが父親も姉も現地で知り合った数人の被災者の方々の気持ちはこの悲劇をたくさんの人に知ってもらいたいと思っている事と、後世に伝えたい気持ちがある事。
その役目として私のblogなどまったく役不足ですが自分なりの記録として今回体験し、見聞きしたことを残す決断をしました。
1000年?に一度と言われる未曾有の大震災!その一つの記録としては意味があるのかと。
出発は予想される渋滞を避けるため、深夜の12時でした。
そのため道中は全く渋滞もなくスムーズに走れ。当初心配していたガソリンも普通に24時間営業のスタンドで販売。
先ず仙台港に着くと道路の歪みや陥没、ひび割れが気になり。気をつけないと事故に繋がります。
そのうち見えてきたのは積み重なったナンバーが付いたままの自動車の山!路上は片付いてますが横は瓦礫が散乱する状態。
R45を走っているとテレビでよく目にする船が道路上に点在する光景。
道脇の植え込みが塩害で枯れていたり、家やショッピングセンターが津波によって破壊されてる光景も広がる。
ほぼ半壊した家の二階からは小さな行灯が見えるのでそんな中でも既に人が生活しているようでした。
この状況だけでもまるで信じがたく、戦場を知らないのに戦場の表現を当て嵌めてしまう。いやッ!多分それ以上です。
自分はただ唸るしかありませんでした。
石巻に入る頃にはだいぶ辺りは明るくなり、すると遠くまで見渡せるようになりました。
でも本当ならそこは遠くまで見渡せちゃいけない所なんです。 住宅街だった場所ですから。
瓦礫に埋もれた石巻市内を走り若干迷いながらも父親のいる避難所へ到着。
そこで少し仮眠を取り、後ほど父親と震災後はじめての再会を果たす。
父親はまくし立てる様に今回の体験を話してくれました。
その言葉の節々には私に対する当て付けの感情も入り乱れていました。
確かに!来ようと思えばどんな手段でも来れました。やれガソリンが無い!とか危ない!とか理由をつけてたのは事実です。
父親は津波が背後から迫るなか車で脱出したこと。
仲間がまだ3人上がらないこと。
ばらばらに避難した同じ集落の人達のこと。
たくさんの思い出の記録を失ったこと。
いくら話しても話し足りない様でした。
私たちは先ず父親の住んでた集落へ行き一枚でも写真が無いか探しに行きました。
何度か父親は一人で探しに来てたとは言ってましたが所有する本を数冊見つけただけ。
父親の家は無惨に土台からむしり取られ屋根は山側約100メートルくらいの方へありました。その場所はその集落の津波最大到達位置で、水面からの高さは20〜30メートルはあると思います。
船や漁具の浮きやブイ等が集落まで散乱し、画像2は東北に居るの?って思うような大きなウミガメの死骸も。
瓦礫を見つめながら涙する父親の後ろ姿は本当に小さく見えました。
同じくここに住んでいたおばあさんが捜し物をしてました。
話しかけるとやはり津波の生々しい体験談を。
そしてびっくりしたのは私に写真は撮ったのか?と聞いて来ました。
私は何枚か撮りましたが!と答えるとそのおばあさんは自分の家も撮っておくれと私に懇願してきました。アングルまで指定してきます。
自宅の最後の記録を残したかったのだと思いました。
瓦礫の山は途方もなく、情けない事にうちの思い出の写真は一枚も出てきませんでした。
普通は有っても見ませんが無いと思うと無性に見たくなりました。
〜つづく。